People〜ヒトにみる〜

野口健 のぐちけん

アルピニスト。1973年米国生まれ。
1990年、欧大陸最高峰モンブラン登頂を皮切りに、キリマンジャロ、コジウスコ、ア コンカグア、マッキンリー、ビンソン・マシーフ、エルブルースと登頂を成功させ、 1999年にエベレスト登頂を達成。
当時7大陸最高峰登頂最年少記録を25歳で樹立する。その後、環境問題への取り組み を開始し、エベレスト清掃登山、「シェルパ基金」や「マナスル基金」を設立、富士 山清掃登山など精力的に活動を行っている。
※マナスル基金はマナスルの麓で学校建設に向けた募金活動。現在も行っている。

野口健公式ホームページ
http://www.noguchi-ken.com/

野口健

−今西壽雄の山男としての印象は?

ネパールとの国交がまだ始まっていないなか、本当によく行きましたね。実はあの頃というのは、日本が戦争に負けて貧乏で、セーターを着てヒマラヤに登っていた時代なんですよ。すごいと思うのは、50年前のヒマラヤ・マナスル登山隊の時、誰にも不幸がなかったんですよね。依然ヒマラヤでの遭難者が絶えないことを考えても、本当チームワークの良さを感じます。しかし、当時は大変だったと思います。今回(2007年)私のエベレスト・富士山同時清掃登山プロジェクトのスポンサー集めで感じたんですが、60歳代の経営者の方々はたいてい皆、当時のマナスル初登頂のことを知っているんですよ。その点では、おかげさまでスムーズに運びました。非常に助かりました。

野口健

−当時の登頂隊の環境をどう思われますか?

「最初」ってやっぱりすごい!野茂英雄も大リーグに(昨今のブームにおいては)一番最初に行った、そのあとみんなが行くようになったんだよね。サマ村(マナスルふもとにある村)からは「最初に来た外国人」として当時相当の妨害があったと思う、本当よく通れたなあと思います。今でも通るたびに「寄付くれ」といわれるくらい、マナスル登山にとっては関所のようなところですから。(現在野口氏はサマ村に学校を計画中)天気予報についてもインドからの情報に頼っていたのでしょうが、実態どの程度正確かわからなかったと思うんですよね。登山ルートの現況の写真がなにもない、ただひたすら初めてのところを歩く、、、我々はなぞっているだけですよ。彼ら(当時のマナスル登山隊)が最初に登ったということがすごくうらやましいんだけれど、反面、とても大変だったんだなと思います。また装備についても、まるで今と違いますよね。重たい酸素ボンベを三本かつがないといけなかった当時の環境に比べると、現在の軽量、ハイテク装備といい、道具も便利になってきました。私の場合、エベレストに二回失敗しているのですが、いつかは登れちゃうんだよね。そのあたりが当時とは違うと思います。

−野口健さんにとって、山頂には何がありましたか?

頂上には何もないですよ。 生きて帰らないと行けないという漠然とした不安が急に身を包み、死と隣り合わせの中、下りるしかないと覚悟を決めるものの、時に意識がもうろうとすることがあります。ヒマラヤにいるとき、比べてヒトがアリのように小さく見えてしまう。儚き存在だと思いつつ、そのような斜面に立っていると、ものすごい「生」を強く意識します。登るときは、ただ単純に頂上を目指すことだけしか考えないですしね。再三言いますが、50年前、初登頂時の登山隊が、全員無事に、誰一人事故なく生きて帰ってきたことがすごい思います。まさにチームワークの賜物です。

日下田實 ひげたみのる

1930年栃木県生まれ。
早大山岳部に所属して4年時に主将。
53年1月には南米アコンカグアに登頂。
マナスル登山隊は第2次隊から参加し、第3次隊では最年少隊員。
56〜58年、毎日新聞運動部に勤務。

日下田實

「隊全体がゆったりする、おだやかな山男」

今西さんとはマナスル第三次隊の準備期間中からご一緒したわけですが、今西さんはときどき関西から上京され隊の中枢として活躍されておられましたが、この期間中私は食料担当ということで今西さんと直接話し合うということはありませんでした。もちろん今西さんのお名前は存じ上げておりましたが、年齢も大分離れておりましたし、当初は何か近寄りがたいという印象をもっておりました。隊員もきまり話し合う機会もあって、大変おだやかな、やさしい気持ちをお持ちの方だとわかり安心した次第であります。

カトマンズを出て、キャラバン中、今西さんは隊長の槇さんと常に行動をともにされ、高齢の槇さんを気づかっておられたように思います。

四月一日から本格的な登山行動が開始され、五月九日、十一日に登頂が成功し、五月十六日に第一キャンプを撤退し登山行動は終了したわけですが、この四十数日の間、今西さんと行動をともにしたのは四月十四日、一日だけでした。それは第三キャンプへの登路の偵察に今西さん、加藤さん、村木さんと私が指名されたときのことです。当時わが国で第一級のクライマーと云われた人達と行動をともにすることが出来たということは私にとって何ものにもかえがたいものでした。とくに今西さんの行動に直接触れることが出来たことは私にとって得がたい経験でありました。

今西さんの思い出といってもあまりないのですが、今西さんは居られるだけで、何か隊全体がゆったりしていたような気が致します。これは私だけでなく他の隊員の方もそう感じていたのではないでしょうか。

マナスル登頂50周年記念式典

マナスル登頂50周年記念式典
(ネパール・カトマンズにて)

松田雄一 まつだゆういち

1930年5月東京に生まれる。1952年3月、日本大学工学部卒業、在学中、
体育会山岳部で活躍。
1953年9月(社)日本山岳会入会。
多年に亘り、理事、評議員、監事、副会長(1992〜93年度)を歴任した他、第二次、第三次マナスル登山隊、1959年ヒマルチュリ登山隊、1970年エベレスト登山隊に参加した。

松田雄一

「槙有恒隊長のもとマナスルに初登頂」

私が今西寿雄さんと親しく接する機会を得たのは、1956年に槙有恒氏が隊長となって、第三次マナスル登山隊を編成し、その顔会わせが行われたときであった。当時槙隊長は62歳、今西隊員が41歳、私と日下田隊員が、最年少で25歳という年齢構成であった。
その会合で槙隊長は、隊員一同に対し隊員就任の挨拶と隊員選考についての経緯を説明するとともに、隊長としての決意を披瀝された。そのときの強烈な印象は今でも忘れることができない。隊長としての隊員に対する対応は、全て1対1で対応したいとの挨拶であったからである。
今回の隊員は、先輩、後輩の関係に厳しい大学山岳部で育ってきたものが多かったので、隊員の年齢差には関係なく、全て平等に扱うと言う、その民主的(デモクラシー)な対応に驚かされたのであった。
その日以降、槙隊長は、この方針を崩すことはなかった。しかし若い隊員たちに荷重がかかるのも事実であった。このような時、親子ほどの年齢差のある今西さんからは、状況を見て、いつも「松田君、何か手伝うことはないか?」と声をかけてもらった。このようなときは本当に嬉しかったし、先輩に対する信頼感は、募るばかりであった。他の隊員たちも、各自に与えられた責任分野と指示が明確になされていたため、For the Team に徹することができ、チームワークも素晴らしかった。
この種の登山隊では、通常 登頂者が,マスコミなどからスポットライトを浴びることが多いが、第一次登頂隊員に選ばれた今西さんは、いつも全隊員やシェルパに支えられて頂上に立たせてもらったという謙虚な態度で対応されていた。そのため全ての隊員が、登頂の喜びを共有することができ、この素晴らしい登山隊に参加できた誇りを持つことができた。そしてこの感激をいつまでも忘れることなく、毎年5月9日前後には、全隊員が集って旧交を温める会を「マナスル会」の名で開催してきた。


「マナスル会のその後」

マナスル登山隊のメンバーによる集まりは、槙隊長を中心に、その後1986年の「登頂30周年の集まり」までは、順調に続けられてきた。しかし槙隊長の92歳という高齢を考慮して、30年を節目に暫く休会にしてはというこになり、槙隊長夫人の適子さんの提案もあり、第30回のマナスル会は、各自夫人同伴で、神奈川県大磯の滄浪閣で開催した。
登頂40周年にあたる1996年には、カトマンズで、マナスル当時お世話になった方方をお招きして記念のマナスル会をひらいた。席上、マナスル登山許可取得に、最も貢献されたKrishna Bahadur Verma 氏を、日本山岳会の名誉会員に推挙するセレモニーも行い、その功績を讃えた。
登頂50周年にあたる2006年の12月には、逆にネパール政府から、マナスル初登頂の祝賀会に招待された。
このようにマナスル初登頂を契機に国交が樹立された両国の友好関係は、今後とも続くことが期待されている。

今西芳子 いまにしよしこ

愛知県出身。
今西壽雄 令夫人。

今西芳子

「山ではしゃぐ永遠の子ども」

私は、山らしい山は見当たらない三河平野に育ちました。山の知識に乏しい私は主人との生活を通して、未知であった山の世界のすばらしさと魅力を知りました。そうして山への親近感を覚え、関心を抱くようになるごとに主人の、山へ対する大きな愛情を感じることができました。私の主人は、それは几帳面で繊細で、時間に厳しく、頑健で、お酒にはめっぽう強く、頑固な人でした。主人は本当に、それこそ心の底から山を愛していたので、きっとこれらは山から教わったことなのでしょう。
そんな主人は、ロマンチストな一面も持ち合わせておりました。
あれは、マンションから眺める六甲の山々の夕焼けの見事な美しさに見とれているときでした。突然、ものすごい雷と豪雨が降りつけてまいりました。その滝のように溢れる雨の様子を見て、まるでアンナプルナの時のようだ、と興奮し、子供のようにあちらの窓、こちらの窓と室内を走り回っておりました姿が、まるで昨日のことのように思い出されます。

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